ホームステイ先のネネの家では、広さ8畳ほどのシングルベッドと洋服タンス、小さな机と椅子がある部屋が私の新しい住まいとなりました。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げると、日本の家よりも天井が高いように感じ、
「ロンドンに来ちゃったんだな…」
と自分が遠く異国の地にいることを初めて実感しました。その瞬間、少し不安がよぎりましたが、
「大丈夫だろう。外人はフレンドリーだし陽気なはずだ」
と自分に言い聞かせました。
実際には、私は海外経験が初めてで、アメリカのカリフォルニアのフレンドリーなイメージを勝手に持っていましたが、イギリスやヨーロッパの文化をほとんど知らなかったのです。
これから通うビダルサスーンのロンドン校は、ファッションやモードに大きな影響を与えた名門校。
そこで働くプロフェッショナルたちはプライドが高く、世界中から集まる生徒たちは自信に満ちたスノッブな人々ばかり。
英語もままならない、無知で能天気な日本青年がどうやってやっていくのか、この時はまだ全くわからないまま、私は新しい挑戦を始めようとしていました。
春風が少し冷たく感じる頃、私はイギリスへと旅立ちました。到着したのはガトウィック空港で、最初の6か月は慣れるためにホームステイを選びました。ガトウィック空港から電車でロンドン市内に向かう途中、牧場の緑とホルスタインの牛たちが広がる風景が目に映り、空の高さと白い雲、緑の美しさが心に残りました。ロンドンの空は曇りがちという話を聞いていましたが、この時の印象から、私にとってイギリスの空は青く高いイメージが強く残っています。
ロンドン市内のビクトリア駅に到着し、地下鉄ノーザンラインに乗り換えて、最初に住むフィンチレイという地域に向かいました。フィンチレイはロンドンのゾーン4に位置する閑静な住宅街で、駅からホームステイ先まで歩いて5分ほど。初めてのイギリスで、住所を探しながら無事にホームステイ先に到着すると、出迎えてくれたのはスペイン出身の小柄で優しいおばあちゃん、ネネ。彼女の温かい「ウェルカム!」の言葉にほっとしながら、初めての紅茶を「イエス、プリーズ」と頼んだのを今でも鮮明に覚えています。
正直、私は不器用です。
美容師の国家試験は、当時すでに実際の営業ではあまり使われないセットの技術や、パーマのロッド巻きを規定時間内に行うことが求められる試験でした。学科試験は美容学校卒業後に免除されていましたが、私は特にこのセット技術が苦手で、何とかギリギリで合格しました。
国家試験に合格した私は、夢を実現するためには海外に行くしかないと考え、イギリス、フランス、アメリカのどれかに行くことを検討しました。
最終的に、現代ヘアカットのベーシックなスタイルを生み出したビダルサスーンの存在を知り、イギリスに行くことを決めました。彼の考えたブラントカットやジオメトリックカットの技術が世界的に評価され、ビダルサスーンは名門サロンとして成長したのです。
大学を辞め、美容学校に1年間通い、無事に卒業しました。
当時、美容師免許を取得するには、1年間の専門学校卒業と1年間の美容室でのインターン経験が必要でした。
しかし、有名な美容室では若い年齢層しかインターンとして採用しておらず、20歳を超えていた私にはチャンスがありませんでした。
そこで、私は思い切って決断しました!
「美容師免許を取得したら、カット技術は海外で学ぶことにしよう」
実際、美容学校を卒業して国家試験に合格した時点で、私ができることは限られていました。
シャンプー、パーマのロッド巻き、ヘアダイの塗布、ブローといった基本的な技術だけで、カットは全くできませんでした。
でも、それで十分だと考えました。
カットの技術は海外で学べばいい、そうするべきだと決意を固め、海外でのキャリアを夢見て、新たな一歩を踏み出す準備を始めたのです。
ある日、喫茶店でのアルバイト中、常連の女の子が見ていたファッション雑誌『VOGUE』の写真に強烈なインパクトを受けました。
「このモデル、綺麗でかっこいい」と思わず言うと、彼女は「ヘアメイクもいいよね」と答えました。
その時、初めて「ヘアメイク」という言葉を知り、その仕事に興味を抱くようになったのです。
「ヘアメイクって何?」と質問を重ねるうちに、彼女が教えてくれたのは、モデルや芸能人にメイクやヘアセットをするプロフェッショナルの仕事だということでした。
なぜかその瞬間、私は強く「これをやりたい」と思いました。
普段は他人の意見に流されがちな私でしたが、この時ばかりは意地を張り、「メイクアップアーティストになりたい」と心に決めました。
しかし、その道のりは簡単ではありませんでした。
美容学校に通い、美容室で経験を積んでいく必要があると知り、さらに家族とのやり取りで大学を辞める決断を迫られることになりました。
最終的に、母親の「真面目に働け」という言葉がきっかけで大学を退学し、美容の世界への道を歩むことになったのです。
ある日、夜に店を訪れる常連の女の子たちと話をするようになり、その中の一人が読んでいた雑誌を偶然覗き込んだことが転機となりました。
彼女が読んでいたのは、イタリア版『VOGUE』。
その中に掲載されていたファッション広告の写真に、私は強烈な衝撃を受けました。
写真そのものではなく、そこに写る女性の美しさに心を奪われたのです。
様々な形で表現される女性性、その多様なイメージに圧倒され、思考が止まりました。
そしてただ一つ、「これは何なのか?」という問いが心に浮かびました。
この瞬間が、美に対する強い関心が芽生えたきっかけだったのです。
この小さな喫茶店は、某有名な劇団の座長の甥が営む店で、俳優や女優が出入りする場所でした。
コーヒーの味も絶品と評判で、豆のブレンドにこだわりを持っていた店でした。
ソフトとストロングという2種類のブレンドがあり、特にストロングのブレンドはコーヒー豆屋のオリジナルブレンドとして採用され、後にその豆屋は全国にスタンドコーヒーショップを展開し、大ブレイクすることになります。
この喫茶店が、現在全国展開しているド●●●コーヒーの原点だったのです。
喫茶店の他のアルバイトは俳優や服飾の専門学生など個性的な人たちばかりで、そんな中で地味な大学生の私は居心地の悪さを感じつつ、毎日苦いコーヒーを飲みながらコーヒーの淹れ方を覚えていきました。
コーヒーの味に厳しい常連客に泣かされることも多々ありましたが、なんとか働き続けました。
大学に入学した当初、自由やパラダイスを求めて浮かれていましたが、すぐに違和感を覚えるようになりました。
何かが違う気がしていたのです。
私の地元は東京の中野で、少しディープな雰囲気が漂う地域。
大学でサークルを辞め、時間を持て余すようになりましたが、周囲のクラスメイトたちはそれぞれサークル活動を楽しんでいました。
そんな中、私は大学に通いつつもアルバイトに没頭し始めます。
中野ブロードウェイ近くの路地で見かけたハンバーグ屋さんに興味を持ち、アルバイトの張り紙を思い出して、履歴書を持参し面接を受けました。
しかし、行ってみるとその店はハンバーグ屋ではなく、喫茶店でした。
お店の間違いに気づいたものの、流れでその喫茶店でアルバイトすることになったのです。
英米文学との出会い
大学では英米文学を専攻しました。文学自体にはそれほど興味がなかったのですが、なぜか英語には中学の頃から面白さを感じていました。英語がパズルのように見えたからです。そのため、英語を学ぶこと自体には楽しさを見いだせたのです。そして結果的に、英米文学科に進むことになりました。
80年代の時代背景と自分
大学時代の背景を振り返ると、80年代の日本は独特の文化が花開いた時代でした。若者たちは暴走族から竹の子族やスタイリッシュなサーファーへと移り変わり、ディスコが隆盛を極めた時代。ファッション界ではDCブランドが流行し、日本のデザイナーたちが世界で注目を集めていました。
しかし、そうした時代の流れや流行には、まったく興味を持つことができませんでした。
大学生活も、キャンパスライフという言葉が期待を膨らませるように聞こえましたが、どこか自分に合わないと感じることが多かったです。大学の人気サークル、例えばテニスやスキーのサークルに勧誘されて入りはしましたが、自分にはその活動が合わないと感じ、数ヶ月で行かなくなりました。
これが、自分自身の学生時代に対する記憶です。
学力に対しても強く求めたことはなく、小学校ではたまたま野球に打ち込んでいたものの、中学・高校では強く残る思い出もほとんどありません。
荒れた青春を過ごしたわけでもなく、家や学校で問題を起こすこともありませんでした。
そんな中、なんとなく大学に進学することを選びました。理由は特になく、当時は高度経済成長期の競争社会でしたが、経済的には恵まれていた時代でした。
もしかすると、自由を求めて大学に進んだのかもしれません。そして、心の奥底から一つの欲が湧き出てきました。
「俺は何者なんだ?」
「自分を自分らしくしたい」
「このまま何の取り柄もないままでいるのは嫌だ」
そんな微かな欲求が、確実に自分の中に芽生えてきました。